シナゴーグを出て向かった先はここNederland【ネーデルラント】出身でバロック期を代表する画家の一人、Rembrandt van Rijn【レンブラント・ファン・ライン】の家。
Portugese Synagoge【ポルトガルシナゴーグ】から西へ300メートルほど行ったところにそのMuseum Het Rembrandthuis【レンブラントの家】が在る。 そこで相方とランチをする為、待ち合わせをしていた。
Kazuは観光先、特に海外でレストランを探すために無駄な時間を費やすのがとにかく大っ嫌いな性分で、行く先も決まらずダラダラ歩き続けるなんて以ての外と考える一方、相方はそこは気にせず只管歩き回る性格で、Kazuより早く着いてネットワークも繋がって、検索できる環境にありながらそれをせずにいた。 そうならないためにこの日のランチのお店を決めようとしていたのに、相方の「適当になんなりとあるって( ̄◇ ̄*)ノ゙」という意見に従い探さずにいた。 だけど.. 知っていた(,,-_-) この周辺はレストランがあまりないことを。。 しかも今日はやる気のない日曜日.. 言うまでもなく腹ペコ難民となった二人はレンブラントの家の周辺でちょっとした小競り合いをし、食べ物を求めてo(- ̄*o))))...ウロウロ...((((o* ̄-)o
もうね.. こういう時間が一番嫌いだーー (-""-) --!!
同じ場所を行ったり来たり40分ぐらい歩いただろうか(,,-_-) 結局HEMAというスーパーのフードコートに決まった。
シーチキンとサラダのラップとモッツァレラチーズのサンドイッチ、鶏むね肉のサラダを食べながらこんなことになるからやっぱり決めておけばよかった後悔の嵐(_ _。) アナタにとっては仕事でもKazuにとっては二年振りで楽しみにしていた旅行だったことを忘れないでほしい。
そうしてまた再びレンブラントの家の前に戻ってきた。
ユダヤ地区に一際目立つお洒落な建物。 レンブラントといえば自画像が多い画家としても有名で、年代ごとに描かれた作品をよく目にする。
中でも看板や入口の床に描かれたエッチングの「帽子を被り目を見開いた自画像(1630年)」の彼が好きだ。
この建物は、1639年から1659年まで実際にレンブラントが生活していた居住地で、1911年から博物館として内部を当時のように再現し、公開されている。
彼の妻サスキアと共に生活したキッチンは、広くてとても使いやすそう(*゚ー゚)
お鍋や調理道具も充実していて幸せそうな日々が想像できるけど、サスキアとの生活はそう長くはなかった筈。 レンブラントとサスキアが結婚したのが1634年6月22日でサスキア当時22歳、ここに越してきたのが1639年で27歳の時、その二年後の29歳に生後間もない息子を残し、病でこの世を去っている。 そのサスキアの亡骸はKazuが昨日訪れたDe Oude Kerk【旧教会】に埋葬されているが、その墓を巡るとんでもない話が残されている。
裕福な家庭で育ったサスキアは幼い頃に両親を亡くし12歳で孤児になった。 その多額の遺産を相続したサスキアが亡くなった後、彼女が書いた遺書によりレンブラントは再婚しない上で生後8か月の息子ティトスに相続され、息子が亡くならない限り遺産に手をつけれないようにした。 とまぁ、ここまではよくある話。 それからサスキアの死後、ティトスの乳母として入った農家の未亡人ヘールトヘ・ディルクスといい感じになったレンブラントはその女にサスキアの宝石類を与え、その宝石を巡って婚約不履行といった訴えによる裁判で泥沼劇が始まる。 その決着が着く三年前の1647年には性懲りもなくメイドとして入ってきた若い女ヘンドリッチェ・ストッフェルスに目が眩み、交際がスタート。 浪費癖があり常に財政苦難のレンブラントはサスキアの遺言に縛られヘンドリッチェとの婚姻はなかったが、ヘンドリッチェ没後の埋葬資金を作るために何と旧教会のサスキアの墓を売ってしまうという不甲斐無い行動に、男としては最低の人となりだと思った。
しかし画家としてのレンブラントは素晴らしく..
「光と影の魔術師」と呼ばれた彼の作品の奥行には自然と視線が吸い込まれる。
そんなレンブラントの影のお話はほどほどに、光のお話は中編3で(✿ゝω・)ノ
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